「青天屋」言ノ葉城 社長日記
京〜International〜 「青天屋」言ノ葉城の社長日記です。
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DATE: 2009/03/07(土)   CATEGORY: プライベート!
幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種、発売開始!!
幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種、発売開始!!

先日もお知らせいたしましたが、いよいよ幕末シリーズ〜改〜のTシャツが販売開始致しました!!
全50種、勿論全て鑑定書付きです!!


寒さも少々残りますが、日々温かく春の気配を感じる今日この頃。
そろそろTシャツなどもいかがでしょうか?

幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種をご用意させていただきましたので、
どうぞ宜しくお願い致します。


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DATE: 2009/03/01(日)   CATEGORY: プライベート!
幕末シリーズTシャツがリニューアル!!

先日、戦国シリーズ〜改〜Tシャツ全145種を発表させていただきましたが、
本日は幕末シリーズTシャツ全50種がリニューアルして登場しましたので、
何点か画像を載せておきますね。
デザインは特に変わっておりませんが、背面の変更や家紋を見やすくしましたので、
幕末シリーズTシャツ全50種もどうぞ宜しくお願い致します。

また、幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種は予定通り3月10日に発売です!!
と・・・言いたいところなのですが、
幕末シリーズ〜改〜のTシャツを早く欲しいとお客様の声にお応えいたしまして、
本日!!3月1日に全50種発売させていただきます!!

徹夜での作業が連日続きましたが、
弊社はお客様の声にお応えするのが義務であると考えておりますので、
今回も企業努力でできること、精一杯にやらせていただきます!!

幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種。
本日より「青天屋」言ノ葉城の仲間に加わりますので、
伏してどうぞ宜しくお願い致します。



                                   京
                               〜International〜
                        「青天屋」言ノ葉城製作委員会 社員一同

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DATE: 2009/02/26(木)   CATEGORY: プライベート!
「戦国シリーズ〜改〜Tシャツ全145種」本日発売!!
3月1日発売予定の 「戦国シリーズ〜改〜Tシャツ全145種」が皆様の熱い御要望にお応えいたしまして、本日より販売することとなりました!!

「3月まで待てません!!」など本当に嬉しいお言葉を頂きました事を、心より感謝致します。

ゆえに、企業努力でできることを精一杯やらせて頂きまして、
本日2月24日に「戦国シリーズ〜改〜Tシャツ全145種」の販売を急ぎさせていただきました次第でございます。

今後は3月10日に発売予定の「幕末シリーズ〜改〜Tシャツ全50種」を
少しでも早く発売できますよう社員一丸となりただいま製作中でございます。



今後とも、京〜International〜「青天屋」言ノ葉城を宜しくお願い致します。

寒暖の差が激しい今日この頃でございます。
お体には十分に御留意下さいませ。

失礼致しました。

                                   京
                              〜International〜
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DATE: 2009/02/04(水)   CATEGORY: プライベート!
刀の目利きの腕はあがったか?
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大坂冬の陣直前、豊臣方の将・大野治長の屋敷に伝心月叟(でんしんげっそう)と名乗る山伏が訪れて「大峯の山伏です。ご祈祷の巻数を差し上げるために拝謁をお願いしたいのですが」と案内を求めた。

あいにく治長は登城中だったため、番所の脇に通されそこで待たされることになった。
そこには若侍十人ほどが集まっており、刀の目利き(鑑定)を始めた。
そのうちの一人が月叟に「貴殿の刀をお見せ下さい」と言うと、
月叟は「山伏の刀はただ犬を脅すためのもので、お目にかけるほどでもありませんが・・・」と言いつつ差し出すと、姿形はもとより、刃の匂いといい光りといい、何とも言えず、「さてさてまことに見事なもの」と誉めた。

さらに脇差しも同様で、中子の銘を見てみると、脇差しは貞宗、刀は正宗であった。皆が「これはただ者でない」と騒いでいるところへ治長が帰ってきた。

治長は月叟を見るや両手をついて畏まり、丁重な挨拶をした上で使いを城へ走らせ、月叟を書院に招じてたいそう馳走をした。

やがて城から速水甲斐守が使として訪れ、黄金三百枚・銀三十貫を秀頼公から賜る旨を告げた。
治長の家の者はこの時初めて「この山伏は真田幸村公だ」と気づいたという。

その後幸村が彼らに会ったとき、「刀の目利きの腕は上がったか」とたずねたので、皆赤面したという。
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DATE: 2009/02/01(日)   CATEGORY: プライベート!
誠意

どんな仕事でも、
仕事は来た順、それが誠意でしょ。
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DATE: 2009/02/01(日)   CATEGORY: プライベート!
真田 幸村
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大阪夏の陣

大坂夏の陣では道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、幸村はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。
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DATE: 2009/01/30(金)   CATEGORY: プライベート!
激闘 川中島(完結編)
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その時!!

信玄は信じられない光景を目にします。
目の前にいるはずのない上杉軍が、隊列をなして攻撃体制をとっていたのです。
謙信の号令とともに、上杉軍は一気に武田本陣に襲い掛かります。
謙信は部隊を次々と繰り出す「車ががりの陣」という戦法を使用したといわれています。
武田軍は浮き足立ち本陣付近に密集。
たちまち武田軍は劣勢におちいります。
いずれ妻女山の武田別働隊が上杉軍の背後に到着する。
それまでなんとか持ち堪えよ。
信玄は武将達を叱咤します。

この頃、妻女山がものけのからだと知った武田別働隊は、本隊の待つ八幡原に急行します。
しかし、千曲川の対岸には上杉軍が待ち構えていました。
武田別働隊は千曲川をなかなか渡ることができません。
武田本隊は劣勢の中、次々と囲みを破られます。
上杉軍には次のようなような記録が残されています。
囲みを破った荒川伊豆守が信玄に襲い掛かり、馬上より太刀を振り下ろします。
信玄はそれを軍配で振り払い、その危機を見た兵の一人が荒川伊豆守の馬を槍で突き、荒川伊豆守は敗走。
信玄は危機を脱したのです。

信玄は決断を迫られます。
このままいけば、我が本陣が破られるのは時間の問題。
なればここで一気に突撃を仕掛けるべきか・・・。
そうすれば敵も動揺するだろう。
しかし、もし攻撃の隙をつかれればこの信玄の命はない。
我が軍は総崩れとなり、甲斐の国は滅亡する。
今となってはもはや勝ちはいらない。だが絶対に負けることは許されない。
残る道はただ1つ。
「動かざること山の如し」

戦闘開始から四時間後。
再び上杉軍が武田本陣を目指して突撃を仕掛けたちょうどその時。
千曲川の囲みを破った武田別働隊が八幡原に到着します。
「別働隊、到着!!」
この声を聞いた信玄の手が高々とあがります。
「突撃を開始せよ!!」

永禄4年9月10日午前10時過ぎ
武田軍の怒涛の反撃が始まりました。
「侵略すること火の如し」
朝からの戦いで攻め疲れ、しかも別働隊と挟み撃ちにあった上杉軍は浮き足立ちます。
戦況は一転、武田軍優勢のまま夕刻まで続きました。
やがて上杉軍は撤退。
午後4時、死傷者27,000人を出したといわれる死闘川中島の決戦は終わりました。
生き残った武田軍は勝ち鬨の声をあげます。
「上杉敗れたり、川中島は我が武田の手中にあり」

一方、謙信は川中島の戦いの3日後、共に戦った武将達に書状を送ります。
「ご苦労のおかげで兇徒を多数討ち取り、年来の本望を達した」
謙信もまた、死闘川中島の決戦を勝利としたのです。

信玄と謙信。
死闘川中島の決戦は、こうして痛み分けとなりました。
川中島はかろうじて武田の領土として残ります。

謙信の関東平定の夢は潰え、信玄もまた越後進行を断念。
その矛先を南に向けることになります。



この戦いの後・・・。

永禄7年 第4次川中島の戦いの3年後。
武田信玄・上杉謙信両軍は、再び川中島で対峙します。
しかしこのときは刃を交えることなく両軍ともに退却しました。

彼らはこの時、「別れ」を惜しみにきたのではないでしょうか。

信玄・謙信、この後宿敵同士は戦場で対峙することはありませんでした。
越後への進行を断念した信玄は、その矛先を駿河の今川氏に向けることとなります。
この頃の出来事として、このような伝説が残っています。
北の上杉だけでなく南の今川まで敵とした武田は、
海への交通路を断たれ、甲斐には塩が全く入らなくなりました。
民は苦しみます。
そんなある日のこと、信玄の元へ大量の塩が送られてきました。
それは・・・。
上杉謙信からの贈り物でした。
たとえ宿敵であろうとも、その窮地には手を差し伸べる。
いや、宿敵であったからこそ手を差し伸べたのではないでしょうか。

「敵に塩を送る。」
その言葉は、この故事に由来します。

南を制した信玄は、西の美濃を制圧。大大名となっていきます。
いよいよ天下をかけた織田信長との決戦を始めようとしたその矢先。
信玄は病に倒れ、この世を去ります。
享年53歳。

死の間際、信玄は息子の勝頼にこのような言葉を残しています。

「上杉謙信とは和議を結ぶように。
 謙信は男らしい武将であるから、
 頼っていけば若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。
 私は大人気ないことに、最後まで謙信に頼ると言い出せなかった。
 お前は必ず謙信を頼りとするがよい。
 上杉謙信とは、そのような男である。」 

戦いの中に生まれ、戦いの中で死んでいった戦国武将・武田信玄。

その生涯の最期に自らの胸に去来したものは、
宿敵上杉謙信への敬慕の思いではなかったのではないでしょうか。


                                         完




shingen back

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DATE: 2009/01/28(水)   CATEGORY: プライベート!
第4次川中島(中編)
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しかし・・・。

妻女山はものけのからでした。
先日の夕刻、上杉軍は武田軍の動きに気づきます。
深夜、武田別働隊の動きに先んじて上杉軍は下山。
全ての馬に、ばいを噛ませて鳴かない様にします。
兵にも一切の声を出さないように命じました。
行軍は音1つなく続きます。
13,000の上杉軍は密かに千曲川を渡ります。
「鞭静粛々、夜河を渡る。」
後に儒学者・頼山陽が詩に歌った沈黙の行軍は、一糸乱れる見事なものだといわれております。
上杉軍は千曲川の北に布陣。

一方、信玄は別働隊が妻女山から上杉軍を追い下ろしたところを討つために、本隊を率いて海津城を出陣。9月10日深夜未明のことでした。

永禄4年9月10早朝

記録によれば、その日の川中島には濃い霧が立ち込めていました。
信玄は千曲川の北、八幡原に布陣。
後は妻女山の別働隊が上杉軍に奇襲をかけ、慌てて下山したところを本隊と挟み討ちにするだけでした。

やがて・・・。

夜が明けるのと同時に、霧が晴れていきます。

その時!!

信玄は信じられないものを目にします!!



明日のブログへ続く・・・。
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DATE: 2009/01/25(日)   CATEGORY: プライベート!
第4次川中島(前編)・前夜
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永禄2年(1559年)4月

上杉謙信は京都に上洛します。
将軍・足利義輝と面会。
この時、謙信は関東の秩序回復の内諾「関東管領」職を承ります。


翌、永禄3年、5月19日

武田陣中に衝撃が走る出来事が起こります。
駿河の今川義元が上洛の途、桶狭間にて尾張の織田信長の奇襲にあい命をおとします。
これは武田・北条・今川にとって大きな痛手となりました。
関東平定を狙う上杉謙信は、この三国同盟の動揺を逃しません。
3ヶ月後、謙信は突如国境を越えて北条氏が支配する関東平野に進行。
関東を不法に占拠する北条氏を、関東の秩序回復という幕府からの大義名分にて討伐するということでした。
7ヶ月の間に次々と北条氏の領土を落とし、北条氏を拠点・小田原城まで追い詰めます。
これにはさすがの信玄も脅威でした。
北条氏の拠点・小田原城が落ちれば、武田氏は北・東・南の3方向から狙われることになる。
唯一の頼み今川氏も、義元の死によって混乱の中にありました。

さらにこの年。
日本は異常気象にみまわれました。
米や五穀は壊滅。
大名達は食糧確保のために出兵を余儀なくされます。
信玄は考えました。
関東をほぼ制圧した謙信は、飢饉の今食料を求め武田の領地を攻めるだろう。
その前に謙信に大打撃を与えなければ武田は滅亡する。
信玄は決断します。


永禄4年5月17日

武田軍は越後の拠点・春日山城に向け川中島に進行します。
信玄は川中島の南に築いた海津城に着陣。
これを聞いた謙信は関東平定を中断し越後へ帰還、川中島へ兵を向けます。
謙信は川中島へ到着すると武田軍の目の前で千曲川を渡り、妻女山に陣を張ります。
妻女山は武田の本陣海津城の南2キロ先。
目と鼻の先に陣を張ったのは、謙信の信玄に対する捨て身の覚悟でした。

武田の陣中では、上杉の行動をみて家臣が進言します。
妻女山を黙殺し越後へ向かってはどうか?
そうすれば謙信も黙って見ていられず、山を下りそれを追うだろう。
そこを海津城の後攻めと挟み撃ちにすればよい。
しかし、信玄はその提案を退けます。
越後へ向かえば、国境に残る越後の残留部隊に我が軍は立ち往生するだろう。
一部を妻女山へ残しけん制しながら甲府に向かわれれば、川中島へ全軍を置く武田はみすみす甲府を制圧されてしまう。
敵が篭城に飽きて山を下りたところを討つのが上策であろう。
これが信玄の結論でした。
ところが、信玄の当ては外れます。
手短のはずの謙信が、待てど暮らせど山から下りません。

待つこと15日・・・。


永禄4年9月10日午前1時。

先に動いたのは武田軍でした。
武田別働隊12,000
闇に乗じて妻女山の背後へ進軍します。
別働隊が妻女山を突き、山から追い下ろしたところを武田本隊と挟み撃ちにする。
信玄は「きつつき戦法」という秘策を生みます。
この武田別働隊の動きが、逆転に次ぐ逆転を呼ぶ川中島の決戦を生むのです。

武田別働隊、妻女山に到着。


しかし・・・。


明日のブログへ続く・・・。


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DATE: 2009/01/24(土)   CATEGORY: プライベート!
第3次川中島
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しかしそれは・・・。

信玄の策略でした。
2年後雪で謙信が出兵できない隙を狙って、再び信玄は川中島に進軍します。
これに激怒した謙信は雪解けを待って川中島に出兵。
一気に川中島を越えて奥深く進軍します。
しかしこのとき信玄は自らは出陣せず、出兵した者達にも戦いを避けるよう命じます。
謙信が攻めかかれば退却し、遠くから監視するということを繰り返します。
「敵を捕捉できず残念である。」
この時の謙信からの手紙から、謙信の苛立ちが伺えることができます。

信玄は1度も出陣することはなく、遠く離れた深志城で事態を見守るだけでした。
「敵に対しては、勝ちすごしてはならない。負けなければよい。」
被害の大きい戦いは避け、敵が去った後に巧みに領土を拡大する。
それが信玄の兵法の極意でした。

結局、謙信は敵を深追いできず、越後へ撤退することになります。



武田信玄にとって合戦とは、内政・外交・人事など色々あることの1つに過ぎなかったのではないでしょうか。
力だけではいずれ衰退し滅びる。
力では天下を治められないということを、信玄は理解していた。

しかし・・・。

それを理解していたはずの信玄が、自ら謙信との決戦を挑むことになります。
そこには、どうしても避けることの出来ない「時代」というものがあったのではないでしょうか。


次回のブログへ続く・・・。

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